T社との契約を結んだ日、定時で仕事を終えると、有田達二課は課長の奢りで恒例の祝賀会へと繰り出した。明日は土曜日で会社が休みなので、居酒屋を何軒かはしごして、深夜まで飲んでいた。
有田は主役なので途中で帰るわけにもいかず、最後まで付き合った。お酒が強い上に、今日はペースが遅かったので、他の人みたいに泥酔してはいなかった。
有田は帰る方向の同じ者をタクシーに同乗させ、自分も方向が同じ丸井を抱えてタクシーに乗り込んだ。
丸井を家まで送ると、このまま家には帰る気分になれなくて、麗美の家の近くで降りた。
誠之助の傷がどうなったのか知りたいし、滝本のことも気になっていた。警察が有田のところへ事情聴取に来なかったので、警察沙汰になっていないとは思ったが、あれから麗美達に危害を加えたりしていないか、心配でもあった。
有田は夜風に吹かれながら、いい気分で歩いていた。深夜だけあって、辺りは静まり返っていた。遠くで最終電車だろう列車が走る音が小さく聞こえてきた。
しばらくすると、麗美の家についた。正門から入って滝本と鉢合わせたらヤバいと思い、裏門から忍び込んだ。
麗美の部屋の灯籠が灯っていた。まだ起きているのかもしれない。ラッキーだと思って部屋に近づいた。
部屋の障子戸を開けようとして、麗美の他に人がいることに気が付いた。聞き覚えの声がしたのだ。
このご時世に障子戸を閉めているだけなんて、無用心だと思った。鍵の掛けられる木の戸もあるのだが、今日に限って使われていなかった。
しゃがんで、障子戸の音を立てずにそっと開けた。三センチ程の隙間が生じ、部屋の中を垣間見ることができた。
有田は息を止めた。
麗美が男と全裸で交わっていた。その行為を目撃したことよりも、彼女の相手に驚愕した。男は先日麗美を殺そうとした滝本だったからだ。
どういう経緯で和解したのだろうか。元の鞘に納まったといえばそうなのだが、俄かに信じられなかった。人間というものは、そう簡単に変われるものでもないはずだ。
あれまでの激情を持っていた男が、すんなり懐柔されるとは思えなかった。麗美はどんな手を使ったのだろうか。やはり魅力的な体で翻弄したのか、それとも恋人として認めたのだろうか。
灯籠の暖かい明かりが、麗美の美しい肢体と滝本の体を照らしている。滝本は完全に麗美に溺れているように見えた。中の炎が揺れると、灯籠の明かりも揺れて見える。その揺れ具合が、麗美の色っぽさを倍増させているようだ。
「あっ……あぁ……」
麗美の口は閉まることなく、悩ましげな声が滝本の激しい動きに合わせて放出されていた。滝本は恍惚とした表情で、夢と現を行き来しているようだった。
麗美は妖艶な笑みを浮かべていた。有田の瞳にはやはり滝本を手玉にとって取っているように写った。
有田は自分が性的欲求を感じていることに気が付いた。他人の性交を目の当たりして、体が火照っていた。今にも飛び出して麗美にむしゃぶりつきたい気持ちを制圧して、我慢していた。
一番いいのはこの場から立ち去ることだ。頭では理解しているが、体は動きたがらなかった。
休む暇もなく二人の行為は続いていた。時折見せる刺激的なポーズに、有田は理性がはち切れそうになった。
長い時間の忍耐が強いられ、一体いつまで続くのかと見ている方も疲れを見せた時、滝本の体が痙攣したように見えた。布団の上に突っ伏したまま、ピクリとも動かなくなった。
麗美が滝本の体を仰向きにさせた。
有田は滝本が腹上死でもしたかと思って焦った。だが、彼の眉がピクっと動いたので、生きていることがわかった。
先程まで熱く体温が上昇していた有田だったが、気分が萎えるのと同時に熱も冷めてしまった。
麗美は寝巻き用の浴衣を羽織った後、名残惜しいのか、滝本の胸に舌を這わせていた。あれだけ思う存分して、まだ満足できないのかと有田は唖然とした。
ある意味、彼女の果てしない性欲に感心した。
有田は黙って静かに帰ろうと思った。
その瞬間、目の前の光景に目を見開いた。
「――!」
麗美が滝本の心臓の上の辺りを、医者が使うメスで切ったのだ。それだけでなく、流れ出る血を恍惚とした表情で啜り舐めたのだ。
滝本が必死の形相で身悶えた。相当痛いはずだ。
麗美が驚くほどの力で滝本を押さえ込み、しばらくして滝本は痛みに耐え切れずに、失神したようだった。
麗美は嬉しそうに笑うと、メスで切り裂いたところを両手で左右に開き顔を突っ込んだ。
ピチャピチャ、クチャクチャ。
何かを舐めて食べ始めたような音が聞こえてきた。滝本の体が大きくビクンと跳ねた後、死んだように動かなくなった。一体何をしているのだろうか。
有田は恐る恐る立ち上がって様子を見た。
「ひぃぃ――……」
有田は恐怖のあまり腰を抜かした。
麗美は滝本の心臓を食らっていたのだ。
「そこに居るのは誰だ!」
麗美の声とは思えない、しゃがれた声だった。
麗美が顔を上げた。いや、最早麗美の顔ではなかった。化石のようにくっきり皺が顔に刻まれた老婆の顔だった。口元からは一筋の血の筋が垂れていた。顔だけでなく手足の皺だらけで、髪も真っ白に変わっていった。
「――!」
有田は歯が噛み合わなくて声が出せない。顔は恐怖に歪み、体は小刻みに震えていた。
「見ぃたぁなあぁー!」
老婆の怒号が有田を更に震え上がらせた。とても人間とは思えなかった。何百年も生きている妖怪なのか。
老婆がゆっくりと近づいてくる。
「……誰か! た……けて! 助けてくれー!」
やっとしゃべれるようになった有田は、ありったけの大きい声を張り上げた。
必死で逃げようとした。だが、腰を抜かしたままではどうにもならない。
――もう駄目だ。食われる!
観念したように、ぎゅっと目を瞑った。
「どうしました? 麗美様?」
誠之助が部屋の障子戸を勢いよく開けて中に入ってきた。離れから走ってきたのだろう。苦しそうに肩で呼吸をしていた。
次の瞬間、誠之助ははっと息を吸い込んだまま、吐き出すことを忘れたようだ。
滝本の無惨な死体を目の前に、青ざめていた。
「滝本、さん――」
誠之助が呟いた。
有田と誠之助の目が合った。どちらも何も発しなかった。
何かに気が付いたようにはっとして、誠之助が視線を逸らした。
「麗美様? 麗美さ……」
誠之助が羽織った浴衣の袖で顔を隠す老婆の麗美を見つけた。誠之助が麗美に近づいた。
「近づいてはならぬ! 見てはならぬ!」
老婆の声で麗美が叫んだ。
「麗美様なのですね」
誠之助が袖で顔を隠している方の手を握りしめ、袖ごと下に降ろさせた。
老婆の顔が露になった。
老婆の目から涙が流れた。
「あなたには見られたくなかった。こんな醜い姿など。何度死のうと思ったことか……」
「麗美様、全て私のせいですね。私のせいで、麗美様をこのようなお姿にしてしまったのですね」
誠之助が目に溜まった涙を、手の甲で拭った。
「いえ、あなたのせいではないわ。五年前、初めて出会った時には、既にこのような体になっていたのよ。この呪われた体に――」
「そうではないのです。私が初めて麗美様にお会いしたのは、五年前ではないのです」
誠之助が目を伏せて俯いた。
有田は何が何だか分からず、ただ黙って話を聞いていた。
「何年前だろうと同じこと。私が本当に若かったのは百年以上昔の話だわ。私が十七歳、あの人は二十歳で初めて出会った。あの人、清之介さんはこの家の使用人だった。私は清之介さんを好いて、両思いとなった。しかし、身分が違うと云って、私の父上が二人の仲を認めなかった。その上、父上は私を他の男の下へと嫁がせようとした。私が必死の思いで家を抜け出し、清之介さんに相談すると、『必ず迎えに行く。命を掛けて私を助ける』そう約束してくださいました。それなのに、あの人は来なかった。私を裏切って逃げたのよ!」
老婆はその時の気持ちが蘇ってきたかのように、声を荒げた。
「私は絶望の中で何度も死のうとした。でも死ねなかった。その時悪魔の声が聞こえた気がした。『復讐しろ。清之介と同じ年頃の若い男の生き血を吸い、心臓を食らえ』と何者かが私の耳に囁いた。悪魔の声だったとしても、私にはどうでもよかった。この苦しみから解放されるなら、どんなことでもする。そう誓った私は、若い男の心の臓を食うことにためらいはなかった。そうやって百年以上繰り返してきたのよ。男を釣る餌となる若い肉体も、心臓を食べることによって維持できた」
「それなら五年もの間、私はずっとこの家に棲んでいたのに、何故食らわなかったのですか?」
誠之助が尋ねた。
「あなたが、あの清之介さんに似ていたから。姿形は違えども、優しかった瞳、仕草など雰囲気がそっくりだったから」
老婆は誠之助を見つめた。
「裏切り者に、憎い人に似ていたなら殺せば良かったのでは……」
「いえ、違うわ。もう二度と誰も好きにならない。愛など信じないと誓ったのに、私はあなたに惹かれていく自分が止められなかった。人を愛す感情など遠の昔に捨ててきたのに、その想いが蘇ってしまった。この身が化け物に成り果てようとも、惚れた男を殺すことなどできなかった」
老婆は力が抜けたように項垂れた。
「麗美様、いつか話そう、そう思ってずっと云えないでいましたが、覚悟を決めて私もお話します」
誠之助が哀しそうに老婆の麗美を見つめた。
「本当のことを話して貴女に嫌われるのが怖かったのです。幸せになって欲しくて、ただ見守っていました。私はずっと貴女を愛しています。今も昔も。私は、清之介です。貴女を結果的には裏切った清之介です。私さえ、生きて貴女を迎えに行ける事ができれば、貴女にこのような辛い思いをさせることもなかったのです」
誠之助が老婆を愛しそうに抱き締めた。
老婆がその腕を振り払って、誠之助の両手首を掴んだ。
「そんなはずはありませぬ。清之介さんが生きているわけがありません。あなたが何故そのような戯言を……」
「これに見覚えはありませんか?」
清之介は懐から小さなお守りを取り出した。古い物らしく、薄汚れていた。
老婆は渡されたお守りを手にした。
「!」
老婆が驚いた様子で、お守りと誠之助を見比べた。このお守り袋は、確かに老婆の麗美の手作りで、清之介にあげたものだった。
「これは私が麗美様に頂いたもの。殺された時に一緒に埋められてしまったので、この体を手に入れた時に、掘り返したのです」
「それでは誠にそなたは清之介さん……? 一体どうして? 何故殺されたのですか?」
「私は麗美様を迎えにいこうとして、貴女の父上の雇った男達に殺されたのです。残された麗美様のことが心残りで、成仏することなく現世に留まってしまいました」
「それなら何で直ぐに逢いに着てくれなかったの? 逢えるのならば幽霊だって何だって構わなかったのに!」
「申し訳ございません。あの日、私が迎えにいけなかったから、麗美様は他の男の方のもとへ嫁いだと思っていました。あの時の私はそれを確かめる勇気がありませんでした」
誠之助は今度こそ離さないとばかりに、麗美の腕を引き寄せて抱き締めた。麗美も誠之助の背中に手を回した。
「五年前、都合のいい体が手に入ったので、決心して様子を見に来たのです。子孫の方に麗美様のお話を伺えればよかったのですが、あまりにも麗美様の若い頃にそっくりな女性の貴女がいらしたので、麗美様のお傍に居られなかった分、貴女にお使えしようと思いました。しばらく一緒にいて、私は全てを悟りました。貴女が麗美様だということも、貴女が男達に何をしていたのかも」
麗美は見上げて誠之助の顔を見た。
「全てを知っても、まだ私を愛してくださるの?」
麗美の瞳が揺れた。
「私は麗美様を愛しています。例え貴女がどんな罪を犯そうとも、人として間違っているとしても、人ではなくなったとしても、私の気持ちは変わりませんでした。私にとって貴女は一番大切な愛しい人です」
誠之助の瞳は真実を語っている。麗美はそれでも聞かずにはいられなかった。
「本当の私はこのような姿なのです。年輪のように老いを重ねるどころか、心臓を食らうって若返る分、鬼のような老婆に変わってしまった罪深き女。もう私には若い頃の肉体に返る力もありません。それでも、あなたは同じことが云えますか?」
「何をそんなに心配なさるのですか? 麗美様の姿形がどんなに変わろうとも、私は貴女を愛し続けてきました。今も愛しています。これからも愛し続けます。私の愛は過去も現在も未来も貴女だけに捧げると、固く心に誓っているのですから」
「清之介さん!」
麗美が満面の笑みを見せていた。
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