薔薇屋敷

幻想的な愛の劇場の観客となっていた有田は、はっと我に返った。
 二人がどんなに愛しあっていたとしても、老婆が滝本を食い殺したことに変わりはないのだ。
 治まっていた震えが再発した。現場を目撃した有田を二人が生かしておくとは到底思えなかった。
 二人は自分達の世界に入り込んでしまい、有田が居ることなど忘れているように思えた。気がつかれずにこの場を去るには今しかないと思った。自分はこのまま消えるようにして居なくなった方がいい。
 有田は抜けた腰が何とか動けるように戻っていた。今なら歩けるかもしれない。誠之助達の様子を窺いながら、少しずつ後ろ向きに動いた。
 順調にゆっくりと三歩下がって、次の一歩を繰り出そうとした時だった。
 薔薇の蔓がまるで意思を思っているかのように、有田の右足の動きを妨げた。
「あっ――」
 バランスを崩して尻餅をついた。
 誠之助達が有田の方を見た。老婆は有田に滝本を食い殺すところを見られていたと思い出した。
「待てぇ! 知られた以上、生かしておくわけにはいかぬ!」
 老婆が鬼のような形相で有田の方に向かってきた。
「麗美様! 殺めてはなりません! 私はこれ以上苦しむ貴女を見たくないのです!」
 誠之助が後ろから羽交い絞めにして、老婆の動きを封じ込めた。尚も説得が続く。
 その間に有田は右足を自由にした。
「有田さんは私を助けてくださいました。今度は私が恩返ししたいのです。麗美様、後生です。彼をこのまま帰してください!」
 老婆の動きが止まった。
 誠之助は老婆が自分の説得に応じてくれたと思い、拘束を解いた。
 有田が立ち上がろうとした時、老婆は素早く有田のすぐ目の前に飛んできた。
「ひぃっ……」
 有田の喉笛が鳴った。
 老婆の長く鋭い爪が有田の顎を持ち上げた。
 老婆が有田の瞳を凝視した。
 有田の心臓は緊張のあまり激しく動いていた。足は諤々していた。
「私達の秘密を誰にも話さないか? 生涯お前の胸にしまっておけるか?」
「は、はい」
「もし誰かに話すことがあれば、未来永劫お前を呪ってやるぞ!」
「わ、わかりました。必ず秘密は守ります。一生誰にも云いません!」
 有田の瞳の中には強い気持ちが表れていた。老婆が動かないので、有田もじっとしていた。
 ようやく納得したのかどうかはわからないが、老婆は視線を逸らし、有田の顎から手を引っ込めた。
「気が変わらないうちに去れ」
 老婆が見逃してくれた。殺されないですむようだ。有田はほっとして一息ついた。
 老婆との強烈な睨めっこが終了しても、まだ足が震えていた。
 誠之助にも助けてもらった事だし、礼を云おうかと呑気に考えていたら、老婆が爪を有田の目の前に突き出した。
「命が惜しくば、さっさと行け!」
 老婆の荒々しい口調が有田を脅かした。
「うわあぁあー」
 有田は老婆に背を向け、走り出した。だが、方向を間違えたので、そのまま薔薇の海へと飛び込んでしまった。手足や体に無数の薔薇が絡みついて、離してくれないように思えてならなかった。有田はひたすら薔薇を引きちぎった。手には薔薇の棘の引っ掻き傷、刺し傷から薄っすらと血が浮いてきた。痛みを感じないほど、一目散に逃げた。
 ようやく裏門までたどり着いたが、後ろを振り返らなかった。足を止めることなくそのまま走り抜けた。
 何度も足が縺れた。つんのめって転びそうになる度にアスファルトに手を付いて起き上がった。老婆が追ってくることはなかったが、少しでもあの家から離れたかった。

 二十分ぐらい走った頃、二十四時間営業のコンビニの明かりが見えてきた。
「はぁはぁ……」
 有田は息が苦しくて死にそうだ。ここらが限界のようだ。
 コンビニの手前で足を止め、膝を抑えて、咳き込んだ。息も切れ切れに、コンビニに入ると、冷たいお茶を買って外に出た。入り口から少し離れた、邪魔にならない所で、ペットボトルの蓋を開け、一気に喉を潤した。
「けほっ、けほっ……んっ……」
 勢い良すぎて気管支に入ったのか、咽て咳き込んだ。
「はあぁ……」
 有田は大きな溜め息をついた。
 人間の生き血が吸われ、心臓を食われて殺される。その犯人こそが、何百年生きているのかわからない化け物のような老婆で、自分はその老婆が化けていた若い女を抱いたのだ。何度も何度も。彼女に理性を狂わされ、仕舞いには殺されかけた。その老女が若い時に愛し合って未練を残した男、彼もまた幽霊となって現世の男に乗り移り、彼女のそばに居たのだ。
 だが、悪夢の時間は終わった。この先、これほどの恐怖体験などめったに出会えるものじゃないと、乾いた笑いが喉を突いた。
 
 しばらくその場で休憩していたら、近くで消防車のサイレンの音が聞こえてきた。段々と大きくなっている。
 ――まさか。
 有田は胸騒ぎがした。こういう時の予感は当たるのだ。
 考える前に走り出していた。今来た道をまた戻っていた。
 スタミナ切れのため、ずっと走り続けることはできなかったが、歩いたり走ったりして三十分ぐらい経った頃、老婆、いや麗美の家方向に火の手が見えた。
 有田は火事の現場へと急いだ。
 五分程で現場に到着した。
 やはり燃えているのは、麗美の家だった。屋敷は勿論、庭の薔薇も垣根までも、火が回っていた。轟々と音を立てて燃え盛った。
 何人かの野次馬はいたが、麗美と誠之助の姿は見当たらなかった。
 彼らが灯油を撒いて、火をつけたのだと直感した。有田がいた時には何も起きていなかった。このような短い時間で、広範囲に渡って大きくなったのだ。火の不始末という理由などありえない。
 麗美と誠之助は炎の中で二人手を取り合って心中でもしたのだろうか。それとも脱出して、何処かで有田と同じようにこの炎を見つめているのだろうか。どちらにしても、惚れた者同士が手を取り合っているのだ。幸せに違いないと有田は思った。



 翌日、有田は麗美の家の焼け跡を見に行った。消防や警察の現場検証も既に終わっているようだった。
 麗美の家の大火事のことが新聞やマスコミなど各メディアを賑わせていた。あの薔薇の海の燃え後から何百体にも昇る人間の白骨死体が発見されたからだ。
 警察発表によると、あの家は近所の人でも滅多に近づかない空き家で、誰も棲んでいなかったということだ。近所といっても少し離れたところにポツンと何軒か建っているだけで、ほとんどこの家の様子を知るものは居なかったようだ。
 麗美達は電気すら使わず、現代では考えられないような、古風な生活をしていた。焼け跡から調べても、最近まで誰かが棲んでいたなど思いも寄らないのかもしれない。
 彼女達の存在など初めからなかったかのように、何もないのだ。
 だが、有田は知っている。哀れな男と女がいたことを。薔薇に付けられた傷とその痛みが、現実のことだったのだと有田に教えてくれる。
 誰にも云うつもりはない。最も、誰かに話したとしても、誰一人として信じやしないだろう。麗美と約束したからじゃない。約束しなくても云うつもりはなかった。
 生きているのか、死んだのか、彼らの消息はわからないが、やっと心置きなく二人が強く固い絆で結ばれることができたのだ。有田はそっとしてやりたかった。
 麗美は何百人もの男の命を犠牲にし、人間として常軌を逸していた。誠之助もまた、依り代とした男の人生を砕いた。彼らの罪は重い。
 しかし、有田はこう考える。彼らの人生の歯車が少しずれてしまっただけなのだと。彼のしたことは決して許されないことだが、歯車さえ噛み合っていれば、違う人生を歩いていたはずなのだ。
 有田は麗美達を哀れむ反面、羨ましく思った。姿形が変わっても、全く違っても、一途に一人の人間を愛し続けていた。有田の麗美に対する恋心など幻に過ぎなかったのだ。若くて美しい麗美自身が、何百年も前に失われた幻の女だったのだから。
 有田もできることならあの二人のように、一人の人間を死ぬまでずっと愛し続けることができればいいと思った。
 それにしても、見事に何もかもが跡形もなく燃えてしまったものだ。あの薔薇達が迎えてくれることはもうない。今思い出せば、麗美が昔は白い薔薇もあったと云っていた。もしかしたら、血のような深紅は、心臓を食われて埋められた男達の血を吐くような叫びだったのかもしれない。

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青猫かいり

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