有田は麗美の部屋で彼女と抱き合っていた。彼女の体が淫らに快楽の頂点へと誘う。
有田は背中に人の気配を感じて振り向いた。
男がナイフを持っていた。
有田は息を呑んだ。
逃げようとしたが、体が動かなかった。
――殺される。
男がナイフを振り上げ、自分に向かって振り下ろそうとした。
「やめっ、やめてくれー!」
有田は絶叫した。
「はぁはぁはぁ……、なんだ、夢か……」
有田は心底ほっとした。叫んだ自分の声で目が覚めたらしい。
静寂が訪れる真夜中。
自分の部屋で寝ていた。額に汗を浮かべ身悶えていた。
気が付けば寝巻きが汗でベタベタになっていた。気持ち悪いので、着替え始めた。
誠之助が滝本に切られる事件が起きてから、三日が経とうとしていた。軽症とはいえ、人が切られるのを生でみたのはこれが初めてだったので、強烈な印象に残っていた。忘れなれないのだ。
また事件に巻き込まれるのも嫌なので、麗美のところにはあれから一度も行っていない。
だが、理由はそれだけではなかった。
麗美に対して恋愛感情など持ち合わせていない。愛など感じてはいないはずだった。いや、今も愛など存在しない。
それでも、麗美と関係している男達のことは気になっていた。モヤモヤが消えない。嫉妬とは違う感情が渦巻いていた。
この感情はなんなのか。分類するならただの情というものだ。いつから湧いたのか。考えれば、初めから情は有田の中にあった。麗美と繋がった分だけ、ウイルスのように増殖していったに違いない。
情が強くなれば、それはもう恋と呼ぶのが相応しい。自分は麗美に恋をしているのかもしれない。あれほど理性を失わせ、自分を惹きつけるのだ。恋でなければ説明がつかない。
有田はこれ以上麗美に深入りするのが恐かった。麗美を愛するようになるのが恐かった。自分も滝本のように、周りが見えず、見境なく彼女に近づく男を警戒し、刃物を振り回すようになるのか。麗美を独占したくて、それができないからと云って、彼女を殺そうと考える日がくるのだろうか。
麗美は魔性の女なのかもしれない。彼女の妖艶な微笑が、男達を狂わせているのだ。いつかは麗美の振りまく笑みを憎いと思うのだろうか。
考えたところで結論など出るわけがない。愛も、恋も、情も、心で感じるものだからだ。
麗美に逢いたい気持ちと、恐れる気持ちを持ち合わせ、心の葛藤に苛まれていた。
今日は例の美術館のプレゼン結果の連絡がある日だった。
有田は朝からソワソワしていた。丸井も同様だった。いつ電話があるかわからなかったので、デスクワークで時間をやり過ごしていた。課長宛に電話があると、ビクッと反応して会話を盗み聞きすることに集中した。
採用ならおそらく、朝一番か、遅くても午前中に掛かってくると有田は予想していた。
午前十一時を回っても、T社からの電話はなかった。有田は駄目なのかもしれないと、半分諦めていた。
プルルルル。
電話が鳴った。有田は自分のデスクの電話を見た。外線だった。もしかしたら、と思って受話器を取った。
一足遅かった。二課の新人君が教育された通りに、ワンコールで取っていた。
「課長、二番にT社の山野さんからお電話です」
「わかった」
課長が電話に出た。山野といえば、美術館の仕事の担当者である。
待ちに待った電話に、有田は丸井と顔を見合わせて緊張した。
「そうですか、わかりました。ありがとうございます。はい、必ずお伺いします。はい、では失礼します」
課長が受話器を置いた。
呼ばれる前に、有田と丸井は課長のデスクに駆けつけていた。
「課長、今の、プレゼンの話ですよね?」
有田は課長の言葉が待ちきれずに、話を促した。
「ああ。うちと契約したいそうだ」
課長がにっこり笑った。
「やった!」
「有田さん、良かったですね!」
有田と丸井は手放しで喜んだ。
有田達のはしゃぎようを見て、二課の他のメンバーも察しはついたようだ。
「有田君、今日中に契約書を用意しておけ。明日の午後一番にT社で契約を交わして打ち合わせだ」
「わかりました」
有田が元気よく云った。
「これからが本当の始まりだぞ。また忙しくなるからな」
「はい。丸井と二人で担当してもいいですよね?」
有田が念のため確認した。とても一人で担当するのは無謀だ。過労死しかねない。
「勿論だ」
課長の承諾をもらったので安心だ。
「丸井、悪いが付き合ってくれ。急ぎの仕事は優先してもかまわないからさ」
有田は済まなさそうに云った。
「僕の方こそ、この仕事の担当につけるなんて夢のようですよ」
丸井が本音でそう思ってくれていると、有田は感じて安心した。後輩をこき使ってばかりでは、気が引けるからだ。
有田達が席に戻ると、二課の他の社員達が口々に激励したり、喜んでくれた。
読んでいただきありがとうございました。
宜しければご感想など頂ければ嬉しいです。