薔薇屋敷

「有田さん、お疲れ様でした」
 T社を出たところで、丸井が声を掛けてきた。
「ああ、丸井もお疲れさま!」
 有田は丸井の肩をポンと叩いた。
 特に目立った失敗もなく、思ったとおりに進行した。結果はわからないが、やれるだけのことは全てやった。大きな仕事への期待と責任の重圧に押しつぶされそうになった時もあったが、これでやっと解放されたのだ。有田はほっと胸を撫で下ろした。
 有田達に少し遅れて、課長がやってきた。
「お疲れ様。結果はともかく、いい出来だった。君達に任せて良かったよ」
 課長が有田達に労いの言葉を掛けた。
 その一言だけで、今までの苦労が報われる気がした。それに、有能な課長に誉められたのが、格別に心を躍らせた。
「ありがとうございます」
 有田は課長にお辞儀して礼を云った。様々な意味が込められていた。
 質疑応答でも有田は独りで何とか切り抜けることができた。それも事前の課長との打ち合わせが大きな効果をもたらした。他にも挙げたら切がない。その中でも最も感謝したいのは、有田を信じてチャンスを与えてくれたことだった。
「丸井もありがとう。お前のアシストのお陰でスムーズにやれたよ」
 有田は心からそう思った。彼は助手として本当によくやってくれた。
「お役に立てて光栄です。僕の方こそ、勉強させていただいてありがとうございました」
 丸井は満面の笑顔を見せた。
 有田と課長もつられて微笑んだ。
「さて、社に戻るか」
 課長の言葉を合図に、有田達一行は歩き出した。

 今日の大きな仕事が終わっても、細々とした他の仕事が待っていた。
 有田は少し残業をして急ぎの仕事だけ片付けると、会社を出た。
 その足で麗美の家に行った。
 まだ日は完全に落ちておらず、まだ明るかったので裏門から入ることにした。
 綺麗な夕焼けを背に、扉に手をかけた時だった。複数の人間の話し声が聞こえてきた。
 来客中なら出直そうと思い帰りかけた時、男が喚く声を耳にした。
 胸騒ぎがして気になった有田は、裏門からそっと中に入った。
 麗美の部屋の前に一人の男が立っていた。部屋の中には麗美、誠之助ともう一人男が立っていた。
 有田は部屋の中の男も、外の男も顔だけは知っていた。二人とも裏門から出入りするのを見かけたことがある。すれ違ったこともあった。
「滝本さん、落ち着いてください」
 誠之助が外に居る男に向かって懇願した。
「うるせぇ。てめぇは引っ込んでろ。俺はその男に話しがあんだよ!」
 滝本と呼ばれた男が怒鳴った。
 滝本は二十歳そこそこの男に見えた。若い分だけ血の気が多そうだ。
「俺は麗美さんに逢いにきただけで、君と話すことなどないぞ」
 部屋の中に居る男が努めて冷静に云った。
「ふざけるな! アンタこいつと寝ただろうが。麗美はオレの女だ! この落とし前はきっちりつけてもらうぜ!」
 滝本は興奮して叫んだ。
 どうやら滝本は麗美を自分の恋人だと思っているようだ。だが、有田は麗美が恋人は居ないと云ったのを聞いている。滝本の中では、寝たイコール恋人という図式ができあがっているに違いない。
 有田は滝本の怒りの炎が自分に飛び火するのを恐れてその場を去ろうとした。
 有田の気配に気が付いたのか、滝本が横を見た。有田に気が付いて鋭い眼光で睨んできた。
「何の用だよ?」
 滝本が睨みつけたまま云った。
 このままでは彼の怒りの矛先が自分に向きかねない。有田は動揺を隠しつつ、穏やかに話した。
「私は営業のためにこちらにお邪魔しました。取り込み中のようですので、失礼した方がよろしいかと……」
「ちょっと待てよ、アンタ、この家の前ですれ違ったこともあるよな?」
 有田はまずいと顔をしかめた。どうやらこの男に顔を覚えられていたようだ。
「何度か訪ねたので、その時にお会いしたのではないですかね」
 有田はそ知らぬふりをしてとぼけた。
 滝本が部屋の方へ向き直ると、麗美が男に何かを耳打ちしていた。
「おい、何こそこそ話してんだよ!」
 滝本は不快な顔をした。
「沢木さんはもうお帰りになるから、落ち着いて話しましょう」
 麗美が滝本に優しく話しかけた。宥める作戦に出たようだ。
 滝本の体はわなわなと震えていた。麗美の作戦は功を奏するどころか、火に油を注ぐ結果となった。
「麗美ぃー、俺を騙そうったってそうはいかねぇぞ! 何人の男を銜え込めば気が済むんだよ? えぇ? この淫乱女!」
 滝本の怒りは麗美へと移った。
 麗美は滝本を恐れるどころか、不敵に微笑んでいた。
 滝本以外のその場にいる皆が、何も言葉を発しなかった。何を云っても、興奮している滝本の耳には届かないからだ。
「何故なんだよ? オレは麗美を……」
 滝本が俯いてぼそっと呟いた。
 このまま滝本の熱が冷めるのかもしれない、と有田が安心したのも束の間だった。
 滝本は気を取り直したように、顔を上げた。
彼の瞳は獰猛な野生動物が獲物を狙っているかのように、ぎらついていた。
 滝本はズボンのポケットから何かを取り出した。
 刃物だ。果物ナイフ程の大きさだ。
 さすがにやばいと思ったのか、沢木がじりじりと冷やせを掻いて後退さった。
 誠之助は心配そうに見つめ、麗美は何故か平然としていた。自分は刺されないという自信でもあるのだろうか。
 有田は滝本の関心が、殺意が自分に向けられていないことがわかっていたから、事の成り行きを取り敢えず見守ることにした。
「くそぉ、馬鹿にしやがって! オレ一人の物にならねぇんだったら殺してやる!」
 滝本が走り出した。しっかり握ったナイフを振り上げたまま、土足で上がり込む。
 有田は竦む足を叱咤激励して動かした。何とか止めなくてはならない。
「死ねぇー!」
 間に合わない。
 麗美に向かってナイフを振り落とした。
「麗美様!」
 誠之助が叫んで飛び出した。
「誠之助!」
 麗美が叫んだ。
 その瞬間、
「あっ、つっ……」
 うめき声が聞こえた。
「誠之助!」
 麗美がまた叫んで、蹲る誠之助に寄り添った。麗美がナイフの餌食になる前に、誠之助が麗美を後ろにやり、誠之助が麗美の前に出て犠牲になったのだ。
 有田も誠之助の様子を見るために駆け寄った。誠之助の二の腕からは、ぽたぽたと鮮血がこぼれ落ちた。畳に真っ赤な染みが増えてゆく。普段から青白い誠之助の顔は、更に青ざめていくような気がした。
「誠之助さん、横になって、腕を上に」
 有田が素早く指示を出した。心臓より上にあれば止血がしやすいと、咄嗟に思い出したのだ。
 誠之助が有田の指示通りに動いた。
「麗美さん、救急箱ありませんか?」
「あ、はい。今お持ちします」
 麗美が慌てて部屋を出て行った。
 ふと、有田が滝本の様子を見ると、彼は呆然と立ち尽くしていた。放心状態のようだった。
 部屋を見渡すと、沢木は面倒に巻き込まれるのが嫌で逃げたのか、何処にも居なかった。
「ちっ」
 有田が舌打ちした。
 また滝本が暴れると困るので、沢木に手伝ってもらい、何とか彼の手からナイフを取り上げようと思ったのだ。
 どうしたものかと考えあぐねていたら、麗美が勢いよく部屋に駆け込んできて、有田に救急箱を渡した。
 麗美の足音で、滝本は我に返ったようだ。目の焦点が定まっている。
 万事休すと有田は焦ったが、滝本は誠之助を見て、手からナイフを畳に落とした。
「オレは本気だった……のに……。麗美を愛してるだけ、なんだ……」
 今までとは別人のように弱々しい声で呟いた。滝本の瞳からは涙が溢れていた。その場に倒れるように跪くと、項垂れたまま動かなくなった。
「麗美さん、ナイフを」
 有田が麗美に囁いた。
 麗美は頷いて、滝本の傍に落ちていたナイフを有田に渡した
 有田は救急箱にナイフを隠した。代わりに消毒液を取り出し、誠之助の傷口にかけた。
「うっ……」
 誠之助が息を漏らした。消毒液が傷口に滲みたのだろう。
「誠之助、痛くても我慢してね」
 麗美が怪我した反対の手を握って励ました。
「私は大丈夫です。麗美様こそ、お怪我はありませんか?」
 誠之助が麗美を心配して尋ねた。
 あんなに走れるのだから、大丈夫に決まっているだろう、と有田は云ってやりたかったが、云える雰囲気ではなかったので黙っていた。
「ええ。誠之助が助けてくれたから、無事よ。ありがとう」
 麗美が潤んだ瞳で誠之助を見つめた。
「お礼なんて云わないでください。私は使用人ですから、主人の危機を助けるのも仕事ですから。それに私は……、お礼を云われる資格なんてない、んですよ」
 誠之助が沈んだ口調で云った。
 有田は二人の会話中、無言で誠之助の傷口を見ていた。切り傷は縦に長いが、血の量の割りに深くはなさそうだ。
「誠之助さん、ガーゼと包帯で患部を圧迫して血を止めようと思う。きつく締めすぎてもいけないと思うから、締めすぎだと思ったらいってくれ」
「わかりました。お願いします」
 有田は傷口にガーゼを当て、テープで止めた。その上に包帯を巻いた。有田は器用だったので、見た目も綺麗に巻けた。
「これでよしっと。これで動けるはずだから、あとは医者に診せればいい。多分何針か縫うことにはなると思うから」
「ありがとうございました」
 誠之助が起き上がって、有田に礼を云った。
 これで一安心だ。医者に行くまでは何とか持つだろうと有田は思った。
 誠之助が自分の血で染まった畳を見た。
「すみません。畳を汚してしまって。染みになるといけないので、直ぐに拭きますから」
「ここはいいから、早く医者に行きなさい」
 麗美が誠之助を制した。
「すみません、お言葉に甘えてそうさせてもらいます」
 誠之助がお辞儀をして、部屋を出て行った。
「有田さん、今日は本当にごめんなさい」
 麗美が詫びた。
「気にしないで下さい」
 有田は複雑な思いだった。麗美の男癖のお陰で事件に巻き込まれたわけだが、麗美が事件を起こしたわけでもない。ましてや恋人でもないのに、のこのこ麗美の体目当てに逢いに来た自分にも問題がないわけではない。誰が悪くて、誰が悪くないのか。
 勿論、ナイフで切りつけた滝本が一番悪いはずなのに、彼も被害者の一人のような気がしてならなかった。

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青猫かいり

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