薔薇屋敷

 有田は珍しく、昼間に社内でデスクワークをこなしていた。毎日、昼間に営業と称して、麗美の家へと通っていたからだ。
 初めて麗美を抱いた日から、毎日狂ったように彼女の体を求め続けた。
 彼女は当然のように有田に抱かれていた。
 今まで付き合った女には感じたこともない程の欲望。それが有田を突き動かしていた。麗美には雄を捕らえて離さない、フェロモンを振り撒いているとでもいうのだろうか。
 そこの愛があるわけでもない。有田はただ麗美に触れたかった。抱かずにはいられなかった。そこには快楽のみが存在しているだけなのだ。
 そのことを麗美も気が付いているのか、それとも彼女自身、ただの遊びなのか。麗美は有田がどうして彼女を抱くのか、何一つ尋ねてくることもなかった。
 麗美がどういうつもりで有田に抱かれるのかはわからなかったが、有田にはどうでも良かった。むしろ都合が良かったのかもしれない。だから有田は何も云わす、聞くこともなかった。
 麗美の体は麻薬のようだ。一度知った快楽という味は甘美なもので、理性などいとも容易く崩れ去っていく。止めようと思っても、簡単には止められない。最後には中毒となって底なし沼に堕ちてゆくのだ。
 有田は溜め息を付きながら時計を見た。いつもならとっくに麗美の家へ行っている時間だった。
 だが、今日中に終えなければならない仕事があって、外に出ることができなかった。
「有田さん、何だかお疲れのようですね」
 後輩の丸井が有田を心配そうに見ていた。
「最近毎日外回りしてたからかな」
 有田は誤魔化して答えた。実は、麗美の所へ通っている分、人一倍あちこち駆けずり回っていた。毎日営業しているはずなのに、一つも契約が取れないと怪しまれる上に、立場も悪くなるからだ。
 その甲斐もあって、一応ノルマは達成していたので、誰も疑ってはいないのだが。
「有田君、ちょっと」
 課長がデスク越しに有田を呼んだ。有田はすぐさま課長の所へと出向いた。
 課長はやり手で、若くして課長となり、部下からの信頼も厚い。有田も密かに尊敬している人物だった。
「何でしょうか」
 有田は自分に疚しい所があるので、内心冷や冷やしていたが、努めて平静を装って尋ねた。
「実は、今度T社が私設の美術館を造ることになった。そこで我が社にもプレゼンの参加をしないかと声がかかり、二課で担当することになった」
「すごいですね。T社といえば大手じゃないですか。美術館の規模も大きいのではないですか? 何でまたウチの会社に……、いえ、大手の建設会社とかならともかく……」
「勿論、競争相手は大手の建設会社が多い。たまたまT社の社長がうちの設計した設計して建てたビルを気に入ったらしい。だからプレゼンに参加しないかと声がかかった」
「その契約が取れたらすごいことになりますね」
「ああ。そこで、この仕事を君に任せたい。やってみる気はあるか?」
「え? 俺、いえ、私が、ですか?」
 有田は目を丸くした。今までこんな大きな仕事を任されたことがなかった。
「そうだ。責任者は私だが、実質の担当者は君だ」
「しかし、他にも適任者がいると思うのですが……」
 自信がなかった。もし失敗したらと思うと、軽々しく引き受けることができなかった。
「確かに、君には荷が重いかもしれないが、君にとって大きな仕事に挑戦するいい機会だ。自分の限界まで頑張ってみろ」
 課長が有田の肩を軽く叩いた。
「わかりました。その仕事、やらせてください」
 有田は腹をくくった。課長は自分にチャンスを与えてくれているのだ。限界まで頑張っても駄目なときは泣きついてこい、と課長の目は語っていた。そこまで自分のことを考えてくれている課長の気持ちに応えたいと思った。それにこの仕事を取れたら給料アップは間違いない。もしかしたら昇進できるかもしれない。
 ――これで当分麗美に逢いに行けないかもしれないな。
 有田は心の中で呟いた。
「それから、一人では大変だろうから、誰か助手につけてもいいぞ。手が足りない時は他にも応援を頼んでやる。助手は君の方で決めればいい」
「ありがとうございます」
 有田は資料を課長から受け取ると、席に戻った。
「先輩、すごいですね。頑張ってください」
 丸井が小さい声で話しかけてきた。
「ああ。やれるだけのことはやるさ」
 有田は照れくさかった。まだ契約を取れたわけではなかったが、この仕事を任されたこと自体が課長に信頼され認められていることに他ならなかった。
 ふと、有田は丸井をじっと見た。
「な、何ですか?」
 丸井の声が上ずった。
 助手を誰にしようか考えていた。いくらなんでも先輩に助手を頼むのは難しい。同期も今は仕事を抱えていて忙しい。かといって入社三年目の有田にとって、後輩の数は少ないのだ。しかも営業二課には丸井と他の後輩と今年の新人とたったの三名だ。その内新人は戦力にはなり難い。そうなれば残り二名だ。
 どちらかといえば、丸井の方が扱いやすいだろうと有田は考えた。
「丸井、お前今、急ぎの仕事は抱えてないよな?」
 有田が丸井に詰め寄った。
「え? まぁそうですけど――、え? 有田さん、それってまさか……」
「そのまさかだ。助手はお前に決めた。引き受けてくれるよな?」
「僕でいいんですか?」
 丸井が自信なさげに尋ねた。
「ああ。お前がいい。一緒に頑張ろうな」
 有田がにっこり微笑むと、丸井の顔は明るくなった。
「はい。頑張ります。蟻のように働きますから、思う存分扱き使ってください」  丸井が元気に答えた。


 有田は急ぎの仕事を終わらせると、会社を出た。時間は午後九時を回っていた。普段も残業はしているが、大抵八時ぐらいには終えていた。新しい仕事は明日から本格的な打ち合わせをすることになったので、明日からはもっと遅くなるかもしれない。
 家路を急いだ。
 だが、途中で気が変わり、麗美の家へと向かった。人の家を訪ねる時間にしては遅いかもしれないと思ったが、それでも麗美に逢いたかった。
 昼間に逢えなかったこともあるが、明日からもっと忙しくなるので、当分逢えないかもしれない。
 昼間とは景色が違うので、道を間違えないように気をつけながら、有田は急いだ。
 麗美の家の垣根が見えてきた。有田は裏門から入るのは気が引けて、今日は正門へと回った。夜にこの家を訪ねるのは初めてだったので、あまりの暗さに足が竦んだ。
 明かりが全くないのだ。昼間ですら暗いのに、夜になると真っ暗に近い。
 月の薄明かりでようやく歩ける程だ。
 玄関までの道のりがいつもより長く感じられた。
「こんばんは。有田ですけど――」
 有田が大きな声で云うと、奥から明かりがぽっと近づいてきた。傍まで来ると、ぽぅっと人の顔を照らした。
「うわぁ!」
 有田は思わずビックリした。幽霊かと思ったのだ。よくみると、手提げの灯籠を持った誠之助だった。
「どうかしました?」
 誠之助は有田の驚きに首を傾げた。
「すみません、騒いでしまって。それに夜分に尋ねて失礼かと思ったのですが、麗美さんに逢えますか?」
「それが、来客中でして、先程麗美様のお部屋へ案内したばかりですので」
 誠之助の言葉を裏付けるかのように、男物の靴が土間においてあるのがうっすらと見えた。おそらく来客者の物だろう。誠之助は草履を履いていることが多いし、第一、この土間から上がることがない。付け加えてこの靴は革靴のように思える。
「そうですか。残念ですが今日は帰ります。失礼します。おやすみなさい」
 有田は誠之助にお辞儀をして、その場を去った。肩を落としながら、今度は本当に家路についた。

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青猫かいり

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