薔薇屋敷

 有田は昨日と同じ道を歩いていた。勿論営業活動のためである。
 だが、足取りは昨日と違っていた。
 そう、向う場所は既に決まっているからだ。有田は昨日見つけた古い屋敷に向っていた。今度は彼女を間近で見られるかもしれない。そう思うと、自然と急ぎ足になっていた。
 それ程早く歩いたつもりはなかったが、すぐに薔薇の絡まった垣根に着いてしまった。
 突き当たりを右に曲がり、右の方にある垣根と同じ材質の扉を開けて中を覗いたが、やはりここは裏門のようで、小屋や屋敷は見えるが、玄関らしきものは見当たらなかった。考えてみれば、このように広い敷地、大きい屋敷に、この扉が門だというのは不釣合いどころか不自然と云えよう。
 扉の外へでると、今来た反対の方向へと、歩いていった。一画の終わりまで来たところで、角を曲がると、更に薔薇のついた垣根が続いていた。
 とうとう正門らしき門を見つけた。木材で作られた立派な門だが、随分古いようで、木は黒ずみ、傷んでいるようだ。勿論インターホンなど存在しない。しかも門にまで薔薇が絡みついていた。薔薇を大切にするあまり、切るには忍びなかったのだろうか。だが、赤は赤でも、このような深い色ではなく、もっと明るい赤、もしくは他の明るい色ならまだましではないかと思う。
 もしかしたら、他人が訪ねてくるのを拒んでいる家主の心の現われなのだろうか。そうならば自分の訪問は歓迎されないだろう。すぐに追い返されるかもしれない。
 有田はそう思いながらも、恐る恐る門の扉を開いた。ぎぃ、と木の軋むような音を立てながら、扉はゆっくりと動いた。
 有田が一歩敷地内に入ると、一面に埋め尽くされた薔薇たちが迎えてくれた。やっと一人の人間が歩ける幅の石の道があった。
 道を進む途中、濃厚な薔薇の匂いにむせ返り、足を止めて回りを見渡した。
 血のような深紅の薔薇。その異様な雰囲気に包まれた有田は、自分が血の海の真ん中に浮かんでいるような錯覚に陥った。
 背筋に冷たいものが走ったような感覚がしたが、気のせいだと頭を左右に振ってやりすごした。気を取り直して進むと、玄関までたどり着いた。
 屋敷を近くで見ると、垣根から覗いた時よりも、もっと古い印象を受けた。築百年以上は経っているように思える。造りから見ても、江戸時代後期か、明治時代に建てられたのではないかと有田は推察した。
 このような古い屋敷は、薔薇の存在が浮いていて、ある意味目立つのだ。他の業者が放っておくはずがない。だが、専門業者が手を付けた形跡はなさそうだ。よっぽどこの屋敷が気に入っているのか、ただ単にお金がないのか、よっぽど偏屈で頑固な主人が交渉に応じないのか。
 それにしても、本当に人が棲んでいるのか、疑問に思える程の荒れようである。人は確かに見かけたが、門にも玄関にも表札はないので、ひょっとしたらあの時はたまたま家の様子を見に来ていただけかもしれない。
 有田は呼び鈴が見当たらなかったので、玄関の引き戸の左側を引いた。無用心にも鍵はかかっていなかった。中をみると、玄関というより、土間になっていた。その一段上は畳二畳分のスペースがあり、そこから左右と奥にそれぞれ廊下が伸びているようだ。
 昼間なのに薄暗く、奥まではよく見えないので、なんとなく心細い気がした。
「すみませーん。どなたかいらっしゃいますか?」
 有田は敷居を跨いで土間に足を踏み入れると、奥の方まで聞こえるように、大きな声で叫んだ。すると、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。だんだん音が大きくなってきたと思ったら、奥の方から人が現れた。
 昨日、有田に声を掛けた男だった。二十二、三歳の男前だが、どちらかといえば優男の風貌で、室内が薄暗いせいか青白く見える。色は異なるがまた作務衣を着ていた。
「どのような御用ですか?」
「あの、私、こういう者ですが」と有田は名刺を男に近づいて差し出し、
「ご主人様でいらっしゃいますか?」
 有田は一応確認してみた。
「あ、いえ、違います」
「そうですか。いえ、実は、家を新築かリフォームするご予定がないか、と思いまして」
「そうですか……」
 男は名刺と有田を見比べると、
「しばらくお待ちください」
 と、奥へと引っ込んでいった。
 有田は男が戻ってくるか、家の主人が出てくる前に、少しでも家の状況を知ろうと、天井を見上げたり、壁に近づいて触って見たりした。
 そうして数分経っただろうか。男が戻ってきた。
「主人がお会いになるそうです。どうぞお上がりください」
「では、お邪魔します」
 有田が靴を脱いで上がると、男は無言で背を向けて、また来た廊下を奥へと戻っていった。彼の背中が付いて来いと云っていた。
 有田も無言で男の後を追った。
 廊下の突き当たりを右に曲がった一番奥の部屋の前で立ち止まった。男はその場に正座すると、
「連れて参りました。失礼します」
 と云って、障子戸を少し横に引いてから、その隙間に手を入れて横に押した。
 有田は今時障子戸というのが珍しかったが、このような作法で部屋に入るのも珍しいと思った。もしかしたらかなり厳格で古風なご主人様ではないかと萎縮した。
「どうぞ」
 男が部屋に入るよう促した。
 自分も正座して部屋の前で挨拶した方がいいのかもしれないと思ったが、そのまま足を一歩踏み出してしまった。
 足元は畳だったので、縁を踏まないように気を付けながら、部屋の中へと入った。
 後ろで障子が閉まる音がして、反射的に有田は振り返っていた。男の足音が離れていく。
 この家の主人と二人きりだと思うと、幾らか緊張してきた。恐る恐る目の前に居るであろう、主人を見た。
「――!」
 有田は声が出なかった。
 そこに居たのは、昨日見たあの美しい女だった。部屋の中央で正座から少し足を崩した様子で居た。
 有田は彼女に合わせて正座をした。
 間近で見ると、息が止まりそうなぐらい妖艶な美しさにクラクラしそうだ。着物姿がよく似合っている。髪を結い上げたうなじが色っぽい。着物の裾から見え隠れする手足が細く、色白で滑らかに見えた。
 有田は目を細めて彼女を見つめていた。
「こんにちは。私はこの家の主人で、麗美と申します。どうぞ、名前で呼んで下さい。先程の者は誠之助と申します。」
「あ、有田と申します。宜しくお願いいたします」
 有田は改めて麗美にも名刺を渡した。
 名刺を受け取った麗美と目が合い、ドキっとした。闇のような漆黒の瞳に吸い込まれそうな気がした。
 有田は目を逸らすようにして、部屋を今更ながら見廻した。部屋には隅に小さな机と灯籠が置いてあるぐらいで、他には見当たらない。屋敷の外見に合わせて部屋の中も古風にしてあるのだろうか。今時の若い女性にしては珍しいインテリアである。部屋の窓からはあの薔薇たちが見える。
「ご用向きの話は誠之助から聞きました。ここを建て直す予定はございませんので、ご期待には添えないかと存じます」
「そうですか。しかし、見たところ、かなり古くなっておりますよね。ご不便などはありませんか?」
「いえ、特に問題はありませぬ」
「そうですか……、それにしても凄い数の薔薇ですね」
 有田はふと外の庭を眺めて云った。
 彼女の表情は至って微笑しているのだが、取り付く島もないように感じた。有田は少し話題を変えてみた。世間話などで相手の頑なな警戒心を解き、セールスの糸口を見つけるというのも一つの手だ。
「ええ。何本あるのか数えられませんわ。昔は庭の半分もなかったのですけど、徐々に増やしていくうちに、庭を埋め尽くすどころか、外にまで出ようとしているようですわ」
 麗美が恍惚とした表情で薔薇の海を見つめた。有田は薔薇を見る振りして、その顔をちらっと横目で見た。
「赤がお好きなのですか? 他の色の薔薇も美しいと私は思うのですが」
 有田が遠まわしにずっと疑問だったことを尋ねた。
「昔は白い薔薇もありましたのよ。でも今は赤ばかり。だって、赤は情熱の色ですもの。素敵だと思いませんか?」
 麗美が妖艶な笑顔を見せた。
 有田はその笑顔に魅了されそうになる。
 営業マンとして相手を話術で魅了することはあっても、自分が飲まれていては話しにならない。有田は麗美から薔薇へと視線を移した。
 今気付いたが、ここは昨日彼女が居た縁側の横の部屋のようだ。その証拠に垣根の左の方に裏門が見える。昨日声を掛けられたことと同時に、麗美に誠之助と呼ばれていた男のことも思い出した。
 誠之助はこの家の主人ではない。そしておそらく家政夫と云ったところだろうが、彼女とはそれだけの関係なのだろうか。下世話な妄想が有田の脳裏を駆け巡った。
「誠之助さんは、見たところこの家の家政夫ですか?」
 気になって仕方がなかった有田は、思わず口に出してしまった。
 麗美が一瞬動揺したように見えたが、有田の気のせいだったかもしれない。
「――ええ。五年前から働いてもらっています」
「他にもどなたかいらっしゃるんですか?」
「いえ、私の家族はすでに亡くなっていますし、他には誰も――」
 その時、廊下を歩く足音がしたかと思うと、この部屋の前で止まった。
「麗美様、お茶をお持ちいたしました」
 抑揚のない誠之助の声。
「入りなさい」
「失礼します」
 誠之助は先程と同じように部屋の中に入ってきた。両手でお盆を持っている。
 誠之助は跪いて、お盆の上から冷たいお茶の入ったガラス細工のコップを有田の目の前に差し出した。続いて水羊羹の乗った皿も置いた。
「ありがとうございます」
 有田が礼を云うと、誠之助は無言でお辞儀した。
「誠之助さん、失礼ですが、貴方はどうして家政夫になられたのですか?」
 立ち上がろうとした誠之助に、有田は唐突に不躾な質問をした。誠之助は麗美をちらりと見てから、その場で正座をして答えた。
「もうお聞きかもしれませんが、私は五年前、身寄りもなく、働き口もなく、食べる物にも困っていまして、あてもなく彷徨っていてこの家の前を通りかかりました。その時に薔薇の美しさに魅せられ、この家の庭に無断で入ってしまって、麗美様に見つかった途端、空腹で倒れてしまいました。
 それでご恩返しも兼ねて、この家に住み込みで働かせてもらえるように頼み込んでやっと雇ってもらいました」
「そうでしたか。今時住み込みの家政夫とは珍しかったもので、つい経緯を窺ってみたくなりまして」
「住み込みと云っても、私はこの母屋ではなく、離れに住まわせてもらっているんです。この部屋からは一番遠い部屋、なんですよ」
 誠之助が無表情で云った。有田はもしかして誠之助に嫌われているのかと思ったが、どうも違うような気もしてきた。ただ単に表情が顔に出ない性質かもしれない。少なくとも、口調や視線からは嫌悪されているようには感じられなかった。
 有田はお茶と菓子を頂くと、鞄から薄いパンフレットを出して麗美の前に置いた。
「そろそろ社に戻らなくてはなりませんので、一応パンフレットを置いて行きます。もしよろしければご覧下さい」
「でも、本当に建て直す気はありませんわ」
「心得ています。リフォームも扱っておりますが、無理に契約をお願いするつもりもありませんから、またお邪魔してもよろしいですか?」
「それは構いませんけど、無駄足になりませんこと?」
「構いません。この屋敷も庭も気に入りましたから、仕事を抜きにしてもお邪魔したいくらいですよ」
「それならまたいらっしゃるのをお持ちしておりますわ」
 有田は麗美の笑顔に見送られて、その屋敷を後にした。

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青猫かいり

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