初夏と云えば立派な夏である。
梅雨が明けて初めて夏の本番を迎える訳だが、入梅前でも日中の陽射しは強い。日によっては日中の気温は真夏と同じ位になることもある程だ。
背広をきっちり着込んだ有田が、外回りの営業のため汗を掻きながら歩いていた。有田はビルや店舗、家屋などの新築は勿論、内装、外装を問わずリフォームも扱う会社の社員である。
今日もセールスのために歩き回っていたのだ。闇雲に歩き回ればいいという訳ではなかったが、何とかして一件でも契約を取りたいために、リフォームの必要がありそうな民家を探していた。
この辺りは都会から離れた地域で、段々と路地が狭くなってきたかと思えば、民家もぽつりと何軒かしか建っていないようだ。
初めて通る道だった。
しかし、民家がなければ当然リフォームなどできるわけがない。道の選択を誤ったと思わずにいられない。
引き返そうと思った瞬間、沢山の深紅の薔薇の花が視界に入ってきた。
路地の奥の行き止まりに、T字になった路地に面して、一画を占領して建っている民家の垣根に、無数の薔薇が絡まっているのだ。
近づいて見ると、何故か不気味な感じがした。
垣根は細い竹を組み合わせて作られており、随分古いもののようで、色は黒ずみ、所々壊れていた。
垣根のずっと右の方を見ると、門というよりは、裏門といった感じの垣根と同じ材質、作りの扉があるだけたった。
垣根の上から覗くと、広い敷地の庭には一面に深紅の薔薇が咲いていた。まるで薔薇畑のようだ。それにしても、何故赤い薔薇ばかりなのかと不思議に思った。
庭の奥の方に純日本風の大きな屋敷が見える。屋敷はまるで廃屋かと思う程に荒れ果てた様子で、人が棲んでいるようには思えなかった。子供なら幽霊屋敷だと騒ぎそうなものだ。日が暮れていたなら、更にその雰囲気を漂わせていたに違いない。
これだけ古ければ、リフォームするのに最適だが、人が居ないのでは話にならない。有田は溜め息を吐いた。
「ん?」
帰ろうとした時、屋敷の中から女が姿を現し、縁側に座った。どうやら無人ではなかったらしい。
ドキンと胸が跳ねた。
その女は美しい面立ちをしており、着物姿が艶かしかった。
もっと女がよく見えるように、限界まで垣根に近づいた。
女は今まで生身で見た中で一番美しいと思った。
「何か御用ですか?」
不意に声をかけられた有田は声の主を見た。裏門らしき扉を開けて男が立っていた。二十歳過ぎぐらいだろうか。男は厚手の布地の作務衣姿で、竹箒を手に持っている。
有田ははっと我に返り、自分の置かれている状況を悟った。垣根にへばり付くようにして他人の家を覗いている姿など、怪しい者だと語っているようなものだ。
「な、何でもありません。すみません!」
早口に勢いよく云って、垣根から離れると、急いでその場を走って逃げた。男が追ってくる気配は感じない。路地を曲がると、有田は走るのを止め、荒い呼吸を整えるように歩き出した。
「あの男と女は夫婦なのだろうか……」
有田は独り呟いた。
外回りから会社に戻ると、寒いぐらいの冷風が体に巻きついてきた。有田の勤務する会社は業界の中では中堅クラスで、本社は東京にある。有田はこの地方にある支店の営業部二課に所属していた。
五階建ての小さな自社ビルで、一階は店舗として来客用の窓口や応接間があり、二階は全体が営業部のフロアで、パーテンションで課毎にデスクが仕切られているのだ。ちなみに三階と四階は技術設計部、五階には総務部や社長室がある。
有田は二階の自分の机に着くと、鞄を机の上に置き、どさっと椅子に腰を落とした。
「有田さん、どうでした?」
同じ課の一つ年下の後輩の丸井が帰って来た有田に気が付いて、机越しに声を掛けてきた。二課は彼以外、皆営業に出ているようだった。
「全然さ。この不景気にそう易々と契約が取れるかよ」
愚痴交じりに有田が答えた。
「それもそうですね。でもさっき課長から電話があって、新人君、初の契約が取れたらしいっスよ」
丸井が苦笑した。どうやら丸井も契約は一件も取れなかったらしい。
「へぇ、それじゃあ今日は祝い飲み会だな」
「ええ。タダ酒が飲めますね。それにしても新人君、配属されてすぐに契約だなんて驚きましたよ」
「ビギナーズラックだろ? 取れたんじゃなくて、取らせてもらったんだよ」
有田が鼻で笑って云った。
丸井は意味が理解できないのか、一瞬きょとんとした顔を見せたが、そのまま中断していた仕事の続きに戻った。
入社三年目の有田が契約を取れないので、皮肉を云ったわけではなかった。毎年課長が新入社員の適性などに応じて、時期を見て初めの契約を課長の伝手で新人に契約を取らせていたのだ。
これは新入社員のやる気を引き出すと同時に、契約を取った後の新入社員の反応を見て、その後の指導方針を考えるためでもある。有田は去年の新人だった丸井達を見て気が付いた。去年は今年に比べて新人研修の期間が長かったから丸井は気が付いていない様子だが、丸井達の時も、配属されてすぐに課長の伝手で契約を取っていた。
そして有田の時も同じだった。
新人は決して自分の力で契約を取ったわけではない。云うなれは、課長に契約を取らせてもらったようなものだ。それを勘違いしても困る話なのだが。
そうは云っても、新入社員が契約を取れて、先輩の自分が契約を取れていないのは、些か面子が立たない。
声を掛けられて咄嗟に逃げてしまったが、やはりあの廃屋のような古い屋敷の新築か、リフォームの話をするべきだったと少々後悔した。
また明日、あそこへ行こう。
有田は机の上に置いた鞄をどけると、本日の営業日報を書き始めた。
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